昭和五十四年五月二十二日 朝の御理解


御理解第五十九節 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」


 教えを頂いておくと、言う事、そのままそれが血になるとか、肉になるとか、と言う事でなくても、覚えておいてと言う所がね。そして何かの時にその覚えておった事が、所謂、思い出されて、そしておかげを受けていくと、言う事がございます。
 久留米の初代が修業生の方達に、お話をなさる時に、お話を聞きながら眠る人達があるんだそうです。そすと、それをとがめられなかったそうですね。眠りながらでも良いから聞いておけ、と。神がひつような時に思い出させてやる、と言うふうに教えられたと、言う事ですがね。まあ、お互いこうやって日々、それこそ、次から次からと深い、広い、そして新しい教えを、合楽の場合は頂いておりますから、仲々それがそうに、血に、肉にすると言う事は出来ない事が、実は多いのです。ね。只一つ覚えのように、ま、とにかく一切を有り難く受けていく。『此方の道は有り難しで開けたんだからもう、有り難しでは苦労はさせん』と仰るのだから、もうその有り難い、と言う答えを出して行くと言う。ま、そんなふうに教えられますけれども、その有り難いと言う答えの出し方なんですよ。本当に有り難くなかっても、有り難いと言うておる場合が多いのです。問題は神様に、有り難しでは苦労させん、と仰る程しの、ま一つの大真理とでも、申しましょうか。本当に芯から有り難いと思うたら、その有り難いにおかげがあるのですけれども、まあ、ここでも、ね、本当に有り難くなくっても、嘘にでも良いから有り難いと、こう言うていけ、と、ね。だから、本当はうそにでも、ではなくて、それを本当な事がわかって、本当名有り難い、と言うものが答えになって来るような、ま、おかげをいただかなければならんのです。それにはやはりおしえを、頂いておく。そして大事な所はノートしておく。何かの機会に開いて見ると、さあ、ここは、こういう事を習うとったと、なるのが生々とおかげに、つながって来る事があるんですよね。だから、習うた事を、一々、自分の血、肉には出来ていなくても、それを覚えておって、または控えておって、ね、それが所謂おかげになる。
 私は思うのですけども、お互い生身をもっておるのですから、お粗末、御無礼ばっかりなんですけれども、お粗末でもなからなければ、御無礼でもないことを、お粗末と思うて、私の様なお粗末な、御無礼者は、おかげは頂けんだろう、と、言うような思いを 
 する事がありますよね。それが段々、わかってくるとそれを本当に、言うなら、ここでは全ての事に御の字をつけて、とこう言われる。ね、御事柄として受けていく。そこには一切が生きてくる。
 今までお粗末と思うておった、御無礼と思うておった事までが、生々として、おかげとして受けていけれる。私共の数十年の信心を振り返ってみてです。あの時分には、お粗末である、御無礼であると思っておった事が今の私には有り難い、として受けられる心の状態が開けてきておる。これはやはり信心が、一段、一段進んできた証拠である、ね。
 信心が進んでくる。そこから言うなら視野が広うなってくる。いや、それは天地の親神様の御恩恵でこそあれ、お粗末でもなからなければ、御無礼でもないと、言ったような事があるわけですね。
 まあ、例えて申しますと、未成年の方達がお酒を飲む、タバコを飲んではならない、ね。成年に達しなければ自動車の運転免許も取られない、ね。そう言うのがごまかして運転免許取ったり、ね。年端も行かんのに、お酒を飲んだりタバコを飲んだりと、言う事はやはり、それはいけない事でしょう。または罰される事さえあるんです、ね。
 ところが、なら未成年から成年に、所謂、成人ですよ。成人して参りまして、ね、言うならばタバコを喫んでもよければ、お酒を飲んでもよい、と言うね。十代の時は出来なくても、二十代になったらよい、と言うような事がございましょうが。同じ、信心も、信心の御育てを確かに、間違いなく頂いていけばですね。言うなら信心が幼稚な時には、御無礼である。御粗末であるのですから、そのお粗末、御無礼がおかげの受けられない元になる。御の字をつけて頂かれる、和賀心の状態が開けてくると、それは御恩恵として、おかげとして責められもしなければ、それによって拘束されるような事もない。有り難い世界が開けてくる。これはもう、限りが無いことである。
 だから問題はやはり、信心が育っていかなきゃならんのですけれども、そこに一つ問題なのは、私はある難しい問題を泉尾の先生に、井上太郎先生でしたでしょうか。あちらで何日間か修業に参りました時に、お伺いをさせて頂いた事に対する、その答えがね「コントロール」と言う事を言われたそうですね。分からない。意味が非常に難しい事でしたから、分からないけれども、私は今日はしきりに、そのコントロールと言う事を思うんですね。
 例えば植物性のものと、動物性のものと言うですかね。例えば蒲鉾のように植物性と動物性のものが、練り合わされて一つの蒲鉾と言う、美味しい食べ物が出来ますね。どちらがよいの、悪いのと言う事じゃないけれども、生臭気の方は悪いと、例えば思うておったものが、ね、コントロールが出来る。ね、そすと、そこには蒲鉾と言う別な、有り難いと言うものが生まれてくるのです。
 信心にもそれがある、と言う事なんです。それも、だからやはり、一年、一年、信心が育っていっていないとね。それこそ、嘘にでも有り難いと言うていけ、と言うだけではいけんのです、ね。それは稽古の過程であり、実験の過程であってね。もう実を言うたら有り難い事ばっかりなんだから、ね。嘘にでも有り難いと、言うていくうちに嘘から出た誠と言ったようなね、有り難いものにふれられる事もあるけれども、それは本当はもう最初から、有難しで受けられる。御の字をつけて頂かれる事が、沢山あると言う事です、ね。それがやはり、信心が進展して参りませんと、分らんです。ただ、御無礼な事と思い込んで、しもうたりね、有り難くないけれども、ま、有り難いと言え、と言われるから有り難いと言っておるような時代です。それを本当に有り難いとコントロール出来れるところまで、信心を進めていかまければいけない、ね。そして、そのコントロールが出来てです、本当にお粗末と思うておった、御無礼と思うておった事がこんなに有り難いものであったと、わかった時、言うなら私はそう言う信心を、自分で練り出したり体得したり出来るようになった時に、神も喜び、金光大神も喜び、自分自身としても例えて言うなら、御無礼とか、罪の意識と言ったようなものがなくなって、只、有り難いと言う事だけの中にある事を、気付かせてもらう。ね。もう、そこが分ってくれたかと金光大神も喜んで下さるね。その分分ってくれた事が、次のおかげに繋がって居ることの事実を見ても、有り難い事であろうが、と金光大神も喜んで下さる。そのおかげを受けた時に神様も喜んで下さる。私共も、はあ、信心とはこんなにも楽なものだ。信心とはこんなに楽しいものだ。有り難いものだ、と言う事になってくるのじゃないでしょうか。その世界は限りがないです、ね。仏教の言葉に「滅法界」と言う言葉がありますね。法を滅する世界。
 例えば、そこに言うならば、食べてはならん、飲んではならぬ、と言ったようなその掟に縛られる事もあるけれども、そこを抜けると言うと、言うならば十代の時に飲んだお酒が、とがめられたけれども、二十代になったら、それは誰もとがめる者もない。そしてお酒はこんなに美味しいものだと、安心して飲めれるおかげを頂いた時にです。ね、そこまでの信心の成長を神様も喜んで下さらんはずはない。それを教えてくださった、取次いで下さった金光大神が喜んで下さらない事はない。また自分自身もこんなに有り難い事と言うことになるのです。ね、問題は信心が成長していかなければならない。でなかったら、その同じ、ならコントロールしようにもコントロールのしようがない。所謂、調和である。それとこれとの調和が言うならば、程良い調和になっていく時に、言うならば蒲鉾を作るようなものである。生臭気と言うならば、植物性のものを別々にしたら、言うならば、お粗末の意識、御無礼の意識、罪の意識と言う事になるかも知れんけれども、そう言うものでも、植物性のものと取り合わせて、それが練り合わされていく時にコントロールが出来た時に、そこには蒲鉾と言う、もう本当に美味しい、それと、これとを一つにしなければ頂けない味わいの、食べ物が出来るようなもの。そういうおかげの世界があると言う事。そう言う世界をわたしは滅法界と言うのじゃないか、と思うね。法を滅する世界、もう素晴らしい事を、滅法素晴らしいと言いましょ、ね。その滅法素晴らしい世界に住まわせて頂ける。そう言う信心が会得出来、体得出来た時に、私は神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びと言う事に私はなると思うです。
 問題は一段、一段、言うなら子供が大人の真似をする、と言うてもなかなか出来るものじゃありません。だから本当に年は拾うていかなければならない。本当に、それに従うた勉強がやはり出来ておらなければ言うなら、コントロールが出来たらおかげ、コントロールが出来ないから、おかげでない、と言ったような二つに別れるような世界がそこにあるのです。ね。自分の心の中で、全ての事を、有り難い、と答えが出せれる、言うならば、コントロールが出来るようなおかげを頂きたいですね。   「どうぞ。」